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四百余年の時を刻む江戸城築城石石丁場跡。石工達の息吹を感じて下さい!

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築城石用語集
2015.09.24更新

石丁場
いしちょうば
丁場とは主に工事現場のことを指します。
東伊豆町内での石丁場は江戸城築城石の切り出しを行った採石跡を示し矢穴石、矢割り石、完成築城石、刻印石が散在している場所を指します。東伊豆町には江戸城築城石採石の石丁場跡が海岸線に沿って点在、左のバナーメニューは全て複数の採石跡が集積した丁場群の総称となっています。
江戸城
えどじょう
最初の築城は扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が1457年に築城したとされています。
巻狩に来た太田道灌が発見した温泉として伊豆熱川温泉に太田道灌の銅像がありますが、太田道灌が伊豆熱川に来た歴史的背景はありません。(道灌の子孫が熱川沖を舟で通過して下田に来航した事実は確認されています)
2014年、太田道灌の遺言によって築城石が伊豆東海岸から切り出されたという伊豆熱川温泉観光協会発行の冊子が出版されましたが、歴史的根拠は全くなく、観光に来ていただいたお客様を欺く出版物であることは歪めません。
徳川家康による慶長の天下普請(1603年 慶長8年) では江戸城の拡張に着手。神田山を崩して日比谷入江を埋め立てて外濠川の工事を行っています。1606年(慶長11年)、西国大名に石材運送を命じ増築。当時の工事分担は 外郭石壁普請:細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明
東伊豆町各地の石丁場群を担当した大名の名前が連なります。
天守台の築造:黒田長政
石垣普請  :山内一豊、藤堂高虎、木下延俊
本丸の普請 :吉川広正、毛利秀就、
城廻の普請 :遠藤慶隆

以降、慶長〜元和〜寛永、三代将軍・徳川家光まで約40年にわたり江戸城の改修が行われ、現在の首都東京を形作る大規模な工事が続きました。
角石
すみいし
国内城郭の石垣を積み込む建造方法(野面積み、打ち込む積み、切り込み積み)の内、打ち込み積み、切り込み積みの石垣の角に設置された大型の築城石を指します。
角石(すみいし)の大きさは長政の仕様書、「荒切角石之覚」の中で「長さ八尺より七尺ノ間 幅・厚さ三尺」と定められていました。
角脇石
すみわきいし
城郭石垣の角石横に設置された大型の築城石。
長政の仕様書、「荒切角石之覚」の中では「長さ五尺 六尺の内外、幅・厚さ三尺 幅は二尺五寸にても」と定められていました。
矢穴
箭穴
やあな


矢割り石
やわりいし
築城石を採石する際、山や沢にある自然石に小さな穴を並べて掘ります。開けられた穴を矢穴(箭穴)といい、石工の労賃は箭穴に入れたお米の量とされていました。
この穴の上辺が長さ100mm前後が慶長期、80mm前後が元和期、60mm前後が寛永期と云われています。矢穴を掘る際、石鑿で付けた目安の直線上の線跡が現在でも複数見つかっています。

巨石を割るためには、開けられた矢穴に「樫の木」の楔(くさび)を打ち込み水を掛けておきます。やがて楔が膨張し、石が割れる仕組みとなっています。巨石が割れた状態を大割りと云い、割れた石を矢割り石と云っています。その後、石鑿で成形表面を仕上げて築城石としました。
  イラスト資料/東伊豆町稲取・岡田善十郎氏


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ルシーヌ南熱川307

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石丁場探索は自己責任、自己管理の下で行動願います。

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